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                                                   久保田 正


当社の属する練馬区地域の歴史については、地域の人々を始めとして大いなる関心が持たれています。緑豊かな石神井公園には、かつて室町時代の15世紀末まで豊島家の領した城があって栄華を誇っていましたが、関東管領・扇谷上杉氏の重鎮であり江戸城を築いた太田道灌に攻められ、豊島家は滅亡しました。
当時の城跡の一部及び緑は今もって残っており、区民の憩いの場所となっています。
なお、勝った太田道灌も、その後主君上杉氏に疑いをかけられて暗殺されました。

石神井城の歴史についてはまだまだ研究の余地がたくさん残されております。このホームページで筆者の研究結果を皆様に読んでいただき、石神井公園散策の際に「こんなことが昔あったのか」と思い浮かべていただけるたら幸いです。



第1章 鎌倉大草紙と石神井城の落城



1.石神井城落城を記述している古い文献

 (1)鎌倉大草紙 著者不明
     塙保巳一「群書類従」第13集合戦部、第382
            上・下巻収録 明治17年経済雑誌社翻刻発行
     近藤瓶城 校 「史籍集覧」 上・中・下巻収録
            明治16年 近藤活版書 観ばく堂版
       小室元長氏(比企郡番匠村)が吉田意庵法印所蔵の古写全本を入手した。

 (2)太田道灌状
     埼玉叢書 第4 稲村担元編
       明治12年11月に山内上杉氏の家人高瀬民部少輔に宛てた書状

 (3)永享記
     「史籍集覧」  続群書類従  合戦部


2.豊島合戦のあらまし

1499年(文明9年)、山内上杉顕定の重臣である長尾景仲の死後、その子景春に家務職がこないで叔父の忠景が受け継いだことを恨み反乱し、古河公方成氏に通じるとともに、武蔵、相模の諸将に呼び掛けた。豊島氏もこれに応じた。扇谷上杉の家老、太田道灌は上杉刑部、千葉自胤とともに戦った。太田道灌は平塚城の場外に火を放ち、帰路、追撃してきた石神井、練馬、平塚の豊島軍と江古田原で合戦し豊島軍は大敗した。(1499年、文明9年4月13日)4月18日に石神井城は陥落した。文明10年1月25日、平塚城も陥落した。

太田道灌方-太田道灌、上杉刑部少輔朝昌、三浦介義同、千葉次郎自胤
豊島方-豊島勘解由佐衛門尉泰経、同弟平衛門尉、板橋、赤塚ら

文明9年  3月18日 溝呂木城陥落(厚木市)
        3月18日 小礎城陥落(大礒町)越後四郎五郎
        4月18日 小澤城陥落(愛川町)金子掃部助
        4月18日 石神井城 豊島勘解由佐衛門尉泰経
文明10年 1月25日 平塚城陥落(上中里) 豊島勘解由佐衛門
       4月11日 小机城陥落


3.豊島氏の追い詰められた状況

江戸城 江戸氏は秩父氏系の豊島氏の親戚で昔から協力して戦ってきた。1457年(長録元年)
      扇谷上杉の家老、太田道灌によって喜多見に移された。

赤塚城 赤塚卿は足利氏直轄地であって、足利氏の京の菩提寺鹿王寺に寄進されていた。
      赤塚城は豊島一族赤塚氏が築いた。千葉総領家(扇谷上杉方)は石浜城(南千住)に
      入城した(1456年)。兵糧料所として赤塚卿を所領として貰った。千葉自胤は赤塚城を
      居城とした。

志村城 千葉信胤が志村城に入り赤塚城の出城とした(1456年)。この志村の地は平安末より
      豊島一族の志村氏の所領だった。

豊島一族:宮城氏(足立区宮城町)、滝野川氏(北区滝野川3丁目)、板橋氏(板橋町)、
       志村氏(志村2丁目)、赤塚氏(赤塚)
       乗蓮寺に板橋信濃守の墓


4.太田道灌軍の軍事力(江古田原合戦の両軍の差)

永享記では、豊島合戦において豊島氏200騎を太田氏50騎で破り、また平塚城攻めでは、豊島氏700騎を太田氏50騎で攻め落とし、敵の首300騎余りをとったという。
これまでは最後の白兵戦は武士の個人戦闘の集積で決した。足軽の槍歩兵戦法は集団すると攻撃力のあることがはっきりしてきた。槍歩兵集団用法は正面の衝撃力は強いが運動の促通性を欠き側面に弱い。足軽隊は隊長の号令に従い隊形を迅速にするよう要求し、その欠陥を補うように努める。太田道灌は足軽集団戦法の元祖といわれ、精鋭部隊を造り上げていた。常時1500人の足軽が江戸城にいた。武士は500人であった。

   金子常規  兵器と戦術の日本史  原書房
       日本史探訪  角川書店

これは推測であるが、情報伝達網も優れていたのではないかと思う。隊形を組む時間が掛かり行動力の遅い歩兵集団には敵の情報を早く知ることが不可欠である。


5.石神井城落城と豊島勘解由佐衛門尉泰経討死

鎌倉大草紙 4月18日
    18日に泰経罷り出て降参した。同夜道灌が攻めて落城させた。

太田道灌状 4月18日  泰経降参
        4月28日  外城攻略  夜中に没落

神代武雄 練馬郷土史研究会会誌 昭和56.3.28 によると、寛永5年 豊島刑部少輔明重(富岡城主)の書いた豊島家系図には
「豊島勘解由佐衛門 石神井 練馬城主 文明9年4月
 於江古田沼袋相戦 太田道灌 同月18日落城戦死」

鎌倉大草紙では
「石神井城落城後、豊島勘解由佐衛門の平塚の要害を翌年1月25日に押攻めた」
と記述。

太田道灌状も
「豊島勘解由佐衛門尉が平塚に盾籠った」
と記述。

神代武雄氏は、平塚に盾籠ったのは長男泰保であるとの説を出している。
    (練馬郷土史研究会会報 昭和57.7.31)

石神井城落城の際、豊島勘解由佐衛門の討死を太田道灌は確認しておらず、豊島方も不利になることをわざわざ公表するわけはない。
翌年の平塚城の戦いであっさりと豊島方が負けたことを見ても、豊島泰経はすでに死亡し指揮をとっていなかったと考えられる。平塚城での豊島勘解由佐衛門の記載は、豊島勘解由佐衛門の支配する城あるいは太田道灌がそう思っていたと解釈するのが良いのではないか。


6.一族の宮城氏は合戦に参加していたのか?

「安達郡宮城、吉国、政業、為業相継ぎ知行。北条氏康が関東を制した時、庵下に属し戦功をたてた。為業の子泰業は太田氏房に従い武州岩槻城に移る」 ・・・史蹟 宮城氏居館之址


7.石神井城落城後、孤立無縁、敵の城に取り囲まれた平塚城に盾籠ったのはなぜか?
  豊島勘解由佐衛門尉が何度も逃亡できたのは太田道灌のミスか、または意図か?
    (豊島勘解由佐衛門逃亡説の場合)


8.石神井図書館の三宝寺池側の小高い土地は石神井城の一部であったと信じられる。
  今後の調査で地中の戦死した武者の遺骨の供養を希望する。一説にあるようにさして深く
  なさそうな三宝寺池に入って死ぬというより、菩提寺の道場寺の裏林で側近の人々とともに
  切腹または刺し違えて死ぬ方が武将の最後としてあり得ることではないか。

  ここが豊島勘解由佐衛門の討死場所ではなかったかと大胆に推測している。


                  資料1.「鎌倉大草紙」から


  
                資料2.「関東百域」 大多和晃紀 著


                 資料3.「日本史探訪」 角川書店


          資料4.「太田道灌状」から




第2章 豊島泰経と太田道灌の合戦について



豊島家の歴史全体についての研究は多くなされているが、合戦自体については、鎌倉大草紙とか太田道灌状の記述をそのまま提示しているものがほとんどであって、詳しく追及したものがない。本報告では、いろいろな角度から豊島vs太田の戦いを眺め、いったいどういった戦だったのか考察を行った。

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過去2年間の石神井城落城の報告から、下島氏の紹介で学研の「歴史群像」で豊島泰経の道場寺裏林切腹説、照姫の塚と泰経の殿塚の方向が逆など新説として他の学説と共に引用していただき感謝する。
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[1]太田道灌の兵法、戦法、策略


1.太田道灌の兵法

「静勝軒銘扞序」(文明8年)に、こう記述されている。静勝軒とは、太田道灌が江戸城の中に建てた一蒸室である。

「尉繚子の秘策を見る。兵は静を以て勝ち、国は専を以て勝つ。兵は粛ならんことを欲す。粛なれば即ち兵其の利を得、将の権一なるを欲す。即ち、国其の利を得、粛粛の馬、悠々の旗。此れ即ち兵の静なり。劉祐海監を攻むるや寂として人なきが如くなりき」

この兵法は江古田・沼袋合戦に用いられている。

「胡騎を却くるは武にして勝つなり。公鼓を鳴らし盾を拍ち白羽を靡き赤宵を提ぐ。新たに累壁を設け遠く橋梁を架す。即ち戦わずして千里の外に折衡す」

この兵法は石神井城の戦に用いられている。


2.軍備、軍編成の相違

太田道灌は長槍を持ち、かねの合図で一斉に動く足軽軍団を創設するとともにほとんどの関東兵乱に関与せず、ただ管国力を蓄え士卒を練っていた。豊島との戦は彼にとって‘関ヶ原の戦’であって、この大勝利後は太田道灌の幕下に参ずる武士も急激に増大し、確固たる地位を築くことになる。

○ 『太田道灌とその時代』 松井庫之助 著(昭和5年) (日本戦史研究会)

「江戸城の構築以来、約20ヶ年間、道灌は殆ど関東兵乱に関与せず江戸城中に在りて文を講し、武を修め只管国力を蓄へ士卒を練り、他日の風雲の機を待てるものの如し」

○ 「僧万里の記」 (文明年間) から

毎日幕下の士の数百人を駆りその弓手を試み上中下を分つ甲冑を著して踴躍して射るものあり 袒褐して射るものあり跼踏して射るものあり、怠るに及べば即ち罰金300片、有司に命じて貯えて以て試射の茶資と偽す。一日の内、戈を繰り、かねを撃ち士卒を閲すること両三回、其の令、甚だ厳なり。


3.経済力

豊島軍は戦いの連続であった。武士は実戦の経験を積んでいたが、補助者として駆り出された農民とか地侍は疲弊していたと思うし、治世への不満もあっただろう。
太田道灌は元来、関西系の武士である。野猿のような関東武士には最初侮られたかもしれない。しかし江戸城の構築以来、約20ヶ年間道灌は殆ど関東兵乱に関与せず経済力を涵養していた。また、集団戦法の訓練を続けていた。足軽軍団を抱えておくには多大の費用を要するが、それを可能とする経済基盤を有していたと言えよう。

○ 「太田道灌」から太田道灌の現行

「当屋形などの所領は彼長尾入道が領地にひとし、いかで対揚すべけんや是によりて考ふるに我主のためにせんには所々に城郭を構え堀を深くし塁を高くし糧米を多くこめ兵士を練りてこれを守らせ君より始めて節倹を用いよく百姓を憐れみ仁徳を施すときは人心ここに帰し国必ず富むべし。さあらば大名の衆を始め党の輩一揆の徒招かざるに会合し見方大軍となるべし。其時に敵将の心を察し或は間者を用い攻城野戦機にのぞみ変に応ぜば兵権味方にあって関東治平の功日をかぞえてまた人と申す。」


4.謀略

太田道灌は謀略を用い敵の重臣から情報を得、あるいは戦いの前に味方につけていた節がある。太田道灌の圧勝はこれなくしては考え難い。

○武蔵野 p712 「太田道灌をめぐって」の座談会から

高柳氏:一体戦というと戦術が問題になるが、戦術というものはそう役に立つものではない。
     本当は戦術の前に戦略があり、戦略の前に謀略があり、謀略の前に政略がある。
     これを忘れたんじゃ戦争の勝敗なんて理解できない。


[2]江古田・沼袋の合戦 詳細


1.合戦場の推定

江戸末期の街道と村落を描いた阿佐ヶ谷中野周辺図(増田善之助氏)をベースに、豊島塚(豊島氏戦死者の骨、甲冑、刀が発見された場所)を記入し合戦場の範囲を推定し、資料5に示した。

                         資料5


2.戦いの様子

豊島軍が江戸城を攻めるにはいくつかの選択肢があった。

① 禅定院-下井草-上鷺宮-下沼袋村-江古田村-不動橋(江古田川)-葛ヶ谷村-
  下落合村-高田村
② 禅定院-下井草-上鷺宮-江古田村-片山村-上高田村
③ 禅定院-下井草-上鷺宮-下沼袋村-上沼袋村-新井村
④ 禅定院-下井草-上鷺宮-阿佐ヶ谷村-馬橋-堀ノ内-中野
⑤ 禅定院-上井草-荻窪-阿佐ヶ谷-中野

道を決めるに当たっては評定されたと思うが、最短距離であり、かつ横切るべき田圃の幅が小さい①の経路が選ばれた。旧暦4月は田圃は水で満ちており騎馬通行は不向きである。太田道灌軍の新兵器足軽軍団は徒歩であり、待ち伏せするにも場所の選定には苦労したはずである。どこかに集中せざるを得ない。結局①と②に対処できる江古田川の不動橋と妙正寺川の沼江橋付近を選んだようだ。田圃の戦なら騎馬軍が歩兵に優れるとは言えない。豊島軍は江古田川の不動橋を渡り葛ヶ谷村に進もうとした。

沼江橋を渡る②は急な上り坂であり、太田方が高所にいると豊島軍が不利なので①を当然選ぶ。太田方は不動橋東の川岸に足軽軍の一隊を待ち伏せした。訓練通り静寂を保ったはずである。また不動橋西の江古田川岸不動橋西の妙正寺川岸にも隠れていただろう。太田の騎馬武士団は蓮華寺付近および片山村の高所に配置されていただろう。豊島騎馬軍の先頭隊が不動橋を東にわたったとき、太田の足軽軍団の長槍と弓矢が道の両側から攻撃をかける。同時に不動橋西の道の両側から別の太田足軽軍団が攻撃する。

田圃は水で満ちており、豊島騎馬軍は反撃が容易ではない。橋を渡った軍は蓮華寺へ進み、太田の騎馬武士団と衝突する。橋の西にいる豊島軍は江古田村に撤退しようとする。田圃の中に落ちる武者もあり、名のある武士が足軽の餌食となり無念だったろう。片山村の太田の騎馬武士も攻撃を始める。蓮華寺方面に進んだ豊島軍は挟み撃ちにかなわず今の江古田駅方面へ退くが、追い打ちをかけてきた太田軍と今の武蔵野稲荷付近で合戦し、ここでも多数の死傷者を出す。生き残った者は平塚城へ逃げ込んだ。一部は妙正寺川を渡り片山方面へ逃げるが、片山村の太田軍に北野神社付近で攻撃される。

江古田村で陣を立て直した豊島軍は追手の太田軍と交戦するが、多数の死傷者を出し石神井へ撤退。豊島軍の大半は失われる惨敗であった。田で身動きを取れず射殺されたり偎みの残る負け方だった。妙正寺川と江古田川の間の丘(丸山)が主戦場という説は豊島の惨敗を説明し難い。新青梅街道付近主戦場説が妥当である。本時点で地侍は豊島泰経を見限ったとみて差し支えない。道灌は愛宕山に野城を築き、豊島軍の夜襲に備えるとともに威力を誇示したとみられる。石神井城に最初入っていた地侍は退散するか太田方に帰順しただろう。石神井城攻防戦での両軍の人数は大差がついてしまい簡単に落城した。


[3]戦いの前の太田道灌と謀略の成功


最初から太田道灌が圧倒的に強かったとは考えられない。
江古田・沼袋の合戦出陣前、3か所も神社に戦勝祈願をしている。

勝利後、神に感謝して神社を建て直している。豊島軍が別のコースを通ってたらこれほど大勝はしなかったかも知れぬ。しかし太田道灌が待ち伏せの場所を決定したについては事前に情報を入手していたと考えるべきだろう。完全に思い通りの網に敵を入らせるには裏があると思うのが自然である。


[4]宮城氏と栗原氏の動き


豊島泰経に味方した豪族は戦後はみじめな状態になったが、この2氏はその後も無事栄えている。宮城氏は重要な親戚だったが江古田・沼袋の合戦に参加した記録がない(豊島郡誌を除く)しかもその後太田の家老として岩槻城にいた記録がある。栗原氏は石神井の豪族として大変栄えた。大正時代に小谷氏が三宝寺泡北の栗原本家の地所の端に豊島泰経の塚を建てた際も施主になっていないことを見ると、歴史上豊島家とは一線を画していたように思う。

もし上記2氏を含め他の豊島方重臣が中立または太田道灌に加担していたとすれば、豊島家の惨敗も必然的なものだった。豊島泰経が重臣に見限られる状態だったのか、または太田の謀略に負けたのかさらに調べる要あり。

追記:江古田・沼袋の合戦の前に文明8年の戦い、浅茅ヶ原の戦い、荻窪長左衛門原の塚を記述した文献等があることがわかった。次章で報告したい。



第3章 石神井城城郭の構造と合戦状況に関する考察


1.石神井城の構造

昭和58年の土塁、堀の発掘調査結果が報告されている(「練馬区の遺跡」練馬教育委員 昭和58年) (資料6)

                         資料6

平成8年8月現在、三宝寺内西側にあたらしく堂が建設されたため、この部分の土塁がほとんどわからなくなっている。
石神井城は主郭部4郭および外郭で構成されている。
中世の城郭は14世紀には土塁と堀で囲まれた小規模な居館であったが、15世紀には居館は発達して大規模な防御力の強い城郭が成立した。石神井城はかなり強固な城郭であって、
いわゆる村落型城郭である。

すなわち、場内での居住性が高いし、場内に家臣団の改装も含めた墓地も存在するし、城郭全体が集落構造をなしている(「村落型城郭から都市型城郭へ」柴田竜司 千葉城郭研究第3号
1994年 p1)

城の鳥瞰図を図に描いてみた(主郭部全体)。郭の呼称は便宜上数字で呼ぶことにした(資料7)

                         資料7


(1) 第2郭の馬出しと第3郭の馬出しに現在、其々氷川神社および三宝寺が置かれている
  (馬出しとは、城門の前に設けられた郭の一種で、敵の攻撃から虎口すなわち入り口を守り
   城兵の出入りを確保する施設)
   この部分は桝形のように見えるが、氷川神社のすぐ後ろに土塁があるということなので
   馬出しと考えた方が良い(桝形も虎口の防御施設の一つ水門のようになっている)

(2) 第1郭と第2郭の間に丸馬出し(または腰郭)と横矢部分(折邪)が残っている。
   この丸馬出しは横矢のための特別な郭の役割を果たしているとも考えられる。武田氏の
   築いた城は横矢の屈曲は主として弧状に湾曲するものが多いが、豊島氏の城も
   武田の軍学を見習っているようである。
   横矢邪は中間にあり屏風折である。1回の折の張り出しでも塁線に沿って先まで見通せる
   ので効果は十分ある。

(3) 第1郭と第2郭は後堅固の曲輪であり、特に本丸は詰の城として籠城を減少させるように
   なっている。軍学書に防衛上有利と記述される後堅固の円の曲輪’の形をとっている。
   平城であっても本丸は標高相対比で一番高所に置く。最重要拠点なので防備には最善を
   尽くさねばならぬ。第1郭と第2郭の北側は大きい池であり要害となっている。
   資料8に示すように、縁の曲輪の1/4は後堅固で配兵の必要がないものとすると、配兵は
   3/4ですむ。

                         資料8

   後堅固で後部面積を欠落させた場合の欠落部分の面積は次のように
   計算される。

          πr^2     r^2      r^2
      A = ――― ― ――― = ―― ( π ― 2 )
            4       2       4

   曲輪の全面積と欠落面積の比は、

             r^2
      πr^2 : ―― ( π ― 2 )  =  1 : x      x = 0.09 ≒ 0.1 
             4

   すなわち、配兵を1/4減らしても曲輪の面積は1割未満の欠落にすぎない。
   石神井城の第1郭と第2郭は防備城、最適である。

(4) 第1郭西部分、および南部分には渡り廊下のような帯郭がある。ここは武者走りとも
   見えるが、内側の土塁高さも3m異状あり用途はそれだけではない。東北の土塁の高さが
   地勢的に低いので、ここが敵に破られた場合帯郭の内土塁で敵を防ぐ。第2郭と合わせて
   一つの強力な郭の形態となる。
   こう見ると第2郭が本丸とも考えられてくる。第2郭の西側に別の郭があったのだろうかとの
   想像が湧いてくる。発掘調査によると第2郭が台地最上部になる。昭和33~42年の発掘で
   中世住居跡が氷川神社裏(北)で見付かり、瀬戸系、常滑系の中世陶器も発見されている。
   横穴も地下に見つかったそうであり、位置から見て池側にある、昔から言い伝えられている
   抜け穴と話が合致する。

(5) 第3郭とその東側の第4郭の部分の土塁の高さは4m以上であり、堅固である。
   第3郭東面に伏兵を置いて敵を挟み撃ちにする隠郭がある。第4郭西面の土塁と隠れ郭の
   構造からみて、道場寺から石神井図書館前の切り通しの間が第4郭であったと考えるのが
   妥当である。
   第3郭西側に武者走りがあったが、最近三宝寺の仏舎利塔建設でなくなった。

(6) 第1郭の東面にも高い土塁が残っている。こちら側は栗原氏屋敷の敷地内にあるが、現在も
   手をつけずそのまま残っている。弧状の横矢邪(ひずみ)も付いている。
   15世紀に大きな合戦のあった里見の国府台城よりは、土塁高さ、堀の幅は若干小さいが、
   石神井城も立派な城であり、とにかく、中世の城が今も残っているのは貴重である。
   国府台城は最近公園に改築され、言い換えれば、壊されてしまった。


2.守備兵数の推定


兵の配置の間隔は1間に3人配置するのが良いと言われる。1間を6尺とみて隣の射手との間隔は90cmが妥当と言われる。
第1郭と第2郭の北側は三宝寺池に面した要害であり塁の高さも非常に高く、ここには兵を配置しないとして石神井城の兵数を推定した。

           土塁高さ(間)   配兵数(人)
    第1郭     115        230
    第2郭     170        340
    第3郭     227        454
    第4郭     227        454       合計 1378人

石神井城を万全に守備するには最低1400人が必要である。
第2郭西にも郭があったとすると、兵数は増加する。外郭として所々に低い土塁が見つかっているが、外郭の広さを守るには大変な数がいる。いざというときは内郭4郭に兵を配置したと考えられる。内閣から離れた南に出郭(でぐるわ)らしい小郭も見つかっている。切り通しから東の禅上院にかけての丘も城ではないかという人もあるが、ここを守備すると約7000人の兵が必要であり、現実的ではない。少人数の砦があったくらいと思う。江古田・沼袋の合戦で兵数は激減したので、合戦後は内郭の第1郭と第2郭を守るのが精一杯ではなかっただろうか。切り通し側がウイークポイントなので太田道灌は第4郭から攻め落としただろう。
第4郭の土塁近辺に多数の戦死者が確認された。豊島の城にいるのは平常ごく僅か数十人で
いざというときに兵を集めたという史家も希にいるが、文明年間、風雲急を告げている時代にそんなのんびりしたことはありえない。
太田道灌・上杉・千葉連合軍が江古田・沼袋の合戦の前に片山村の北野神社等に戦勝祈願をしていることを見ても、豊島軍はかなり強力な軍勢であった。

中世前期から続く支配体制の衰退・崩壊で社会構造が大変革して領主は領民の安全保障を心掛けねばならなかった。外郭に領民を集めるのも、一つにはそのためであり、また襲いかかる強敵への備えのため緊急動員体制を組んでいたはずである。騎馬武者と歩兵(平時は農業兼務)合わせて上記数となる。


[追記] 豊島氏滅亡後、石神井城一帯の土地を所有してきた栗原氏について:


新編姓氏家系辞書(太田亮 秋田書店)によると「下総(桓武平氏、千葉氏族)迊瑳郡栗原郷より出る。千葉系図に、正の子観秀、栗原禅師と註がある」とある。太田道灌とともに千葉自胤が石神井城攻めに参加しており、合戦後、この一帯を千葉一族の栗原氏が領有し、戦後処理を行ったとみられる。

堀の埋め立てのような破城行為(例:木更津の笹子城)も三宝寺とか氷川神社の建設以外は目立ってないので、合戦後しばらくの間は城として存続していたと考えられる。



第4章 石神井城の支城に関する考察


1.支城の条件


領地を支配するにあたり、本城(根城)の他に、支城(枝城、端城)が必要であった。
支城の条件は、

①敵からの攻撃を前線で防御する場合、敵がどのルートを通って攻撃を仕掛けてくるかを考えて
  支城を配置する。
②支城単位の支配を行う際、支城領の中心に位置する。
  交通上の要地に築かれる。
③緻密な支城網を廻らす。情報伝達手段によって支城間隔が決まる。

   可能な情報伝達手段
      鐘、太鼓、法螺貝、烽火(のろし)
         鐘の音の到達距離は7kmに及んだ例がある。
         雨の日は雨の音で邪魔されて短くなる。

   支城間隔は大体1.2~6kmと言われている。

  ある城から3km離れた所にいる家臣は鐘の音で城に駆け付けられる。緊急の場合、城から
  隣の城に鐘で連絡し支城網で全部の城に早急に情報を伝える。

石神井城の場合も緻密な支城網があったはずであり、今城址のはっきりしている支城の他にも
いくつもの支城がなければ豊島家の領地を守り切ることはでいない。


2.石神井城を中心とする豊島氏の支城の情報
  (現在、城址の明らかなものは除く)


① 荻窪城 (武蔵名勝図絵 文政5年 巻1)

城山:上荻窪村にあり 村の小名に唱う この辺は曠原続きにて山はなけれど城山と言う。天正19年(1591年)御検地以前は豊島軍属せし地なりと言、その後より当郡に属す。出丸、或いは出山と号して丸山などいうも城山続きにあり、住せし人知れず、按ずるに古え豊島に属しまた石神井村へはいと近き地なれば文明(1469~87)の頃、豊島氏が石神井城を構えける砌ここへも砦など設けし跡にてもあるか。
  (現在の西荻北2丁目 西荻図書館近く)

② 下鷺の宮城 (武蔵名勝図絵 文政5年 巻1)

城山:下鷺の宮村にて北の方は練馬、下石神井村堺にあり。小高き丘地、広さ方1町余りあり。古城地という程の地形にも見えねど村の小名にも、ここを城山という。中央に西より東へ石神井川の流れあり。按ずるに文明(1469~87)年中、豊島兄弟が構えける石神井城の砦なるべし。何人の住居せしこともこの地にて伝えずと言う。

③ 上鷺の宮城 (日本城郭大系 5 新人物往来社 昭和54年)

中村北4丁目 平山城
現在の西は中野区上鷺宮3丁目12-15、東は練馬区中村北4丁目21-24まで城山と呼ばれた。現在は平坦地。当時からの遺構は全く残っていない。史料も伝存しない。
ここは昭和20年までは、近辺の人に城山とか山と呼ばれ高い松の生えた林で土塁らしいものもあったが、戦後住宅地に開発されてしまった。

④ 豊玉南の城 (日本城郭大系 5 新人物往来社 昭和54年)

殿山:豊玉南3丁目、大地の南東部が水源地で細流が南方から西を巡って北流している。台地は南方に舌状に突出しており三方を天然の水源に開かれた自然地形である。舌状台地にありながら、やや孤立した高台を形成しているが遺構を判定するだけのものもなく史料も現存しない。地形面からすると低いながらも城館を設置するには理想的条件が整っている。
(氷川神社近辺?沼袋から中新井村或いは鷺の宮への交通路の要衝ゆえ、砦があって当然であるが、江古田・沼袋の合戦のときはどうだったのだろうか?砦があるから豊島勢が合戦場所を疑いを持たずに通過しようとし、一方、片山村、蓮華寺に密かに軍を進めていて豊島勢の来るのを待っていた太田勢にうまく攻撃された可能性もある。)

⑤ 石神井城北方の砦 (練馬郷土史研究会会報 155号 昭和56年
               前島康彦 「豊島史興亡私考」)

城山:石神井城跡の記述の項に「此れより北の方に城山と唱ふる地あり。道灌当城を攻ん時、ここに砦を気づき軍卒を置きし所と言。
     (現在の三原台か大泉2丁目付近か?)

⑥ 羽沢城 (新編武蔵風土記稿 巻之13 豊島郡之5)

「かくして豊島氏は広大な練馬地区を開き、更に進んで石神井の湧水源まで到った。この間に板橋、羽沢、向山、練馬の各支城を築き版図を確保したものと思われる」
     (城北中央公園南部か?)

⑦ 上練馬村の城 (練馬郷土史研究会会報 155号 昭和56年
               前島康彦 「豊島史興亡私考」)

上練馬の項に「小名 海老ケ谷 説城跡の下に辯す」

⑧ 上石神井の城

早稲田学院近辺愛宕山の発掘調査で土塁らしいものが見つかっている。太田道灌の石神井城攻めで陣を敷いたという説もあるが史料はない。昔からの豊島氏の城跡ということらしい。太田道灌は新編武蔵風土記稿では石神井城の北に陣を敷いたとある。


文明年間における豊島氏の最大の敵は太田道灌であった。落合村中村以東は豊島氏の城の話は全く史料にも出てないし、学者も言及してない。江戸城にも近くなるので、太田道灌の勢力下にあったと見られる。豊玉南、上鷺の宮は江戸城に対する防衛上、道筋でもあり砦を築く必要があったと考えられる。
杉山博「豊島氏の研究」のなかに、現在、没年、法名は不明だが、豊島氏の一族として記載されている人々のなかに
   阿佐ケ谷二郎、村山山口 勝間弾正、白子庄賀○助
などの名がある。阿佐ケ谷、村山、白子の方にも豊島氏の砦があったとも考えられる。




第5章 太田道灌と豊島家の合戦 異説


1.緒言


太田道灌と豊島家の合戦については「太田道灌状」および「鎌倉大草紙」の内容を基に説明されている本がほとんどである。簡単に述べると長尾景春に味方した豊島泰経の平塚城を太田道灌が攻めて城下に火を放って引き揚げる。
怒った豊島泰経が弟平右衛門尉と共に江戸城に向け出撃する。江古田原沼袋において太田道灌の軍政に遭遇し合戦となり豊島軍が大敗。平右衛門尉を始め、板橋赤塚以下150人が討死した(文明9年4月13日)。ただちに太田方は石神井城に攻め寄せ4月18日に石神井城は落城した。「太田道灌状」は太田道灌自身の手紙であるが、主な戦いについて概略を報告してるのみで「鎌倉大草紙」は通俗本である。
上記合戦の他に通俗本ではあるが異説もあるので、紹介したい。


2.浅茅ケ原の戦い


① 浅茅ケ原

浅茅ケ原というのは「橋場町総泉寺門前近傍の地を呼ぶ。妙亀山は総泉寺を去る遠からず、これをば浅茅ケ原と名ずく」(総泉寺-南千住町)
                                                  江戸名所記

「橋端の総泉寺の脇にあり。昔は池にやありけん、今はよくあし茂りたる沼水を鏡か池とてをしゆ。浅茅ケ原というも、この池のあたりなり」
                                                   紫の一本

文明18年10月に旅の途中、浅草近辺を通った聖護院道興准后は浅茅ケ原について、
「人目さへ枯れてさびしき夕まぐれ、あさじか原の霜を分けつつ」
と、詠んでいる。
                                                   廻国雑記

② 錦城斉貞玉講演「太田道灌」明治33年4月7日 上田屋書店
    これは後述する「太田道灌雄飛録」をベースとしているようである。

武蔵国豊島郡の住人、豊島勘解由左衛門尉同じく弟平右衛門尉は同郡石神井、練馬の城を取り江戸と河越の道を断ち、その勢七百余騎にて立て籠もる。
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                         途中省略
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遂に川越所、危険ということでありますから道灌は小澤の兵を引きまとめ河越の城に立ち帰る。矢野兵庫頭の軍勢を乱離骨散に突き崩し川越の城へ入る。然るにここには武州豊島郡の住人豊島彦五郎重員というものがある。
之は八平氏の一人にて、かねて勇猛の聞こえある人、最初は扇ケ谷の忠臣と言われたが、此度 定正に叛き御所方となって江戸の城を奪わんといたしました。
道灌聞いて大いに怒り、道「小癪な奴、吾が城近くに彼等差し置くべきものにあらず」と七百余騎を引率して待乳山に陣を取る。
豊島は五百余人、浅茅ケ原に向かうたり。
太田方斥候の者立ち返り敵悉く小勢でござる。
道「さもあらん、さらば平場へ押し出し押っ取り囲んで打ち取れ」と桔梗の紋ついたる旗を真っ先に七百余人、真っ平地に馳せ下る。

道灌采を振り「進め進め」と下知に及べば、兵士竜虎の勢いを以て豊島が勢に突っかかる。この勢いに敵しかね豊島の勢はしどろになって桜の馬場(蔵前)へと退きました。道灌尚も人数と引いて進みます。烈しく突いてかかったこと故に豊島方或いは打たれ又は振り実に目も当てられぬ有様、重員は歯噛みをなし終に討ち死にいたしました。この日取ったる首八十九は山の宿に獄門にさらし江戸の城へ凱陣いたしました。

③ 太田道灌雄飛録
   文政3年(1820年)刊 江戸期の大衆的読物

鎌倉大草紙は室町時代(年代不明)なので、かなり後のものである。しかし何かの言い伝えを基に書かれたと考えられる。

④ 待乳山

今、待乳山聖天のある所であるが、隅田川に臨む往古の丘陵地帯の名残がある。

「ある人の説に今日の日本堤を築きたる時、この山の辺の土を取って築きたりと伝えはべぬれば、この山 古は猶 たかかりしなるべし」 江戸砂子 (享保18年)

「浅草寺の東北方の待乳山を過ぎた隅田川沿いの一帯が石浜、橋場で既に豊島水駅の所在地として古くから集落を構成した」 台東区史から

千葉氏が築いた石浜城の所在が今以て不明だが待乳山丘陵の一角にあったという説もある。
江戸氏の時代に砦があったとしてもおかしくないし、太田道灌雄飛録に記述されているように江戸城を攻める際、豊島軍が陣をはったというのもうなずける話である。


3.豊島彦五郎


関東管領 上杉顕定の豊島勘解由左衛門尉に対する感状が残っている(文明3年5月28日)

  去二十三日上州佐貫庄立林要害中城攻落時、親類彦五郎并家人等
  被疵之由長尾左衛門尉註進到来、尤以神妙、弥可励戦功候、
  謹言  五月二十八日  顕定
   豊島勘解由左衛門尉殿

彦五郎については実名不詳であるが、豊島勘解由左衛門尉の軍団に属していることは確かである。


 
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